男子、女子が仲睦まじく手を繋いで登校しているさまは、傍目からも何とも微笑ましく絵になる光景ではある。が中には稀に男子同士、女子同士で手を繋いでいる輩も散見するのだ。即ち――同姓愛者である。
何にせよ。本来ならここで、生活指導のむさ苦しい教師が一喝「けしからん!」「不純異性行為は俺の目が黒い内は断じて許さん」だのと怒鳴りつける――――様子はこの学園にはそぐわないようだ。
傍にいる教師達は生徒らを咎める姿もなく黙って素通りさせている。恋愛の自由――問題さえ起こさなければ。本人達が幸せなら“良い”と言うのが、この学園の方針らしい。
生徒にしても、自由奔放、本人主義、明朗快活? 等々……言い出したら限がない。教師に至っても、表立った問題ゼロ、不良ゼロ、ストレスゼロ? 等々……こちらも同様。月並みに環境が優れているのが伺われる。一重に特色を挙げれば、限(きり)がないのだ。
この学園は、簡単に言えば、誰に対しても都合の良い世間体の学園である、と言うことだろうか。
まるで脳内が花畑で包まれているような、うれ嬉しい気分の良い生徒や教師でこの学園は一杯なのだ。別名、薔薇学、薔薇色の学園とも呼ばれている。
ところで一杯? ……そう、一杯と言う事は必ずしもあぶれる人間が一人や二人は出るのではないだろうか? ここで想像して欲しい。
を摩り、「あ、あ、あ」と声を調整しながら夏生は待ち人の元へと駆けてゆく。
今日も幸せなカップルを踏み “幸”という名の水を並々にコップに注ぎ入れる。後数滴足らず注ぐことで、表面張力は楽に崩壊してしまうのだ。
決壊は意外と呆気ないものである。――幸せの裏には必ずしも不幸が存在する。コインにも表裏があるように至極当然の結果だ。
全員が全員、幸福に成ることは、まず有り得ない。バランス上有り得ないのだ。
事実この学園もそうだ。華々しい、優雅、綺麗、あくまでも表のイメージである。上辺は“美意識”と言う世間のコンクリに深く塗り固められているが、所詮全ては偽装に過ぎない。
知られざる裏には必ずしも“いる”だろう。
人の幸福な様子を遠目から見るだけで、妬ましく、恨めしく、憎憎しいと怨念が込み上げてくる人物――誰かの幸せなど反吐が出るほど嫌で、体中に虫唾が奔る。何もかもが許せない。自らを含め全てをブチ壊したい。
どんな言葉で表そうか。快感型? 破滅的? 破壊的? 負の衝動に刈られた人間等、表しようが有り過ぎる。心身が未曾有に捻れ歪んだ人間が必ず一人は地球上にいるのだ。
絶対的な幸福には絶対的な不幸が付きまとう。――そしてこの学園に彼女はいた。
一人だけ悪意を孕んだ微笑を浮かばしている人間が確かにいるのだ。
挨拶しながら、表面上はあたかも幸せであるかのような作り笑いを他人に魅せているが。――実際は180度違うように見える。そんな彼女の名前は――
「おはっ! 夏生(なつお)」「お早う御座います、霧我峰(きりがみね)さん」「はよ〜お夏ぅ〜」
自らの背後からやってくる友人A、B、Cの声に彼女は耳を立てた。まるで湖水で戯れる麗人のような慎ましい笑顔を咄嗟的に造ると辺りに振りまいたのだ。
彼女自慢の短く切り揃えられているサイド分けの黒髪はふわりと風に優しくそよぐ。
三人が彼女に駆け寄ると良い匂いがした。ジャスミンの爽やかな香りが風にほのかに乗っているのだ。鼻腔をくすぐるの一瞬の出来事だったのだろう。
「うわぁ〜、相変わらずだねぇ〜。良い匂い〜」
友人Aことロングヘアーの友咲千尋(ともさき ちひろ)が頬を赤らめながら呟いた。
どうやら風に惑うような清楚なシャンプーの香りが彼女の鼻に付き、心を射抜いたようだ。瞳を凛と細くして、彼女――夏生に羨望の眼差しを送っている。
続いて友人Bことスポーツガール奈津野千佳(なつの ちか)も何やら綺麗な下唇を落として言う。
「ホント、美人って羨ましいよな」
若干、彼女の口調は口篭っている。心底、夏生の姿形が羨ましいようだ。
霧我峰夏生はホワイトオパールのような白く澄み切った肌をし、合わせて瞳の輝きもまた怪しく虹色である。
腰周りや腕周りなどは、掴めば人差し指と親指が付いてしまうような錯覚をもたらす細身な肢体をしているのだ。
「まったく、霧我峰さんは何を着ても似合いますものね」
そして最後に友人Cこと外国人ハーフの薙薔薇(ちばな)エシュリーが言った。
確かにエシュリーの言うとおりである。夏生のスレンダー体型がそう言わせているのだと思われる。
しかしながら、学園の制服はお世辞にも素材(着る人間)を引き立たせる造りとは言い難い。どちらかと言えば至って地味である。
学園採用の制服は近年では珍しいクラシカルな制服なのだ。主に女子は紺色セーラー服に濃紺ジャケットを羽織る形を取っている。スカートですら灰色でかなり地味だ。
通常なら目立つ要素など微塵もないはずだが、何故か彼女が着ると、不思議なことに身体の線が分かる制服に早変わりするのだ。
夏生はスタイルが良いのか、着こなし上手なのかは、この際どちらでも良いだろう。重要なのは彼女には人を引き付ける、蟲惑的な魅力があると言うことなのは確かだ。
友人達の発言に夏生はわざと顔を赤らめた素振りをしつつ、しなやかな掌を左右に振りながら、あえて謙遜している。
「そんなことないですよ。私はただ……」
夏生はそこで話すのを一時中断した。両手で恥ずかしげに顔を隠しながら、あたかも困惑したような仕草を彼女達に見せている。
彼女達の見えない角度では、夏生の口角が斜め上に、震えながら吊り上がっていた。どうにかして笑いを堪えようとしているようだ。
仕草の理由として考えられるのは、己の魔性を自分以外に見せる訳にはいかない為。それともう一つは、彼女の濁りきった双眸が脳へと悪意ある策謀を巡らした為であった。
――そう、実際は恥ずかしいから顔を隠した訳ではない。
思わず表情に。危うく自分の本当の素顔を彼女達に曝け出してしまうところだったのだ。
(皆さんを尽(ことごと)く、ブチ壊したいんです)と三度の飯より歪んだ欲望を実現したいのが彼女なのだから。
「どうしたんですの?」「大丈夫?」と彼女達は夏生に心配の色を覗かせている。
「はい、も、もう大丈夫ですから。心配要りませんよ」と軽く彼女は、顔を優しげに綻ばせた。見事な演技である。
「!」
――丁度その時だった。都合よく学園のベルが鳴ったのは。
四人は同時に学園の頂を見やっていた。
彼女達が通う学園の最も高い頂。周囲には学園の白壁が隔てている。――丁度多角形状に突き出した部分(塔屋)から鐘の音色は響き渡っていた。
彼女らの学園は洋風建築の学園なのだ。翼屋の屋根に切妻形の屋根窓。構造はイタリアルネサンス様式で格式ある建物であった。
ホワイトカラーの複雑な紋様が刻まれたクロイスター(修道院)ヴォルト(多角形)型の塔屋の頂上から今、始業を知らせているのだ。
「急がなくちゃ!」
生徒一同は慌てた様子で、肩に掛けた学校指定のカバンを左右に振り乱しながら玄関へと駆け込む。
しかし、夏生だけは赤ん坊を抱くかのようにカバンを大切に扱いながら素早く歩く。
――夏生を含めた彼女達は急ぎ足で学園に足を踏み入れた。教室に向かう階段を上りながらも彼女は思案しているだろう。
既に夏生の頭中には一つのプランが完成されつつあるとは、友人達、他の生徒・教師達は一切知りえない。
時間の流れとは不思議なものだ。退屈な授業があっと言う間に終わり、休み時間となる。彼女の周囲には友人達が跋扈するようにゾロゾロと集まってきた。
何種類かのグループに分かれている。詰まるところ“溜まり場”と言うやつだ。
集まると当然の事ながら仲良さ気な会話が始まる。
「で……さぁ……」「今日は……」「あの……君が……」「アタシ――最近ね」「アイツ……うざ……」
「…………」
何時もながら一方的に話す友人に彼女は受け答えは全くと言っていいほどしない。
反応もせず、呆れるほど無口である。つまらなそうに欠伸や溜息を繰り出すだけなのだ。
友人達はその様子を特に気にも留めていない。他人からは彼女がつまらなそうに欠伸を掻いたりしている印象がない所為もある。
夏生に至っては、自らの瞳に映る少女達の姿は、特徴のない泥人形として映っているようだ。自分の興味を引く対象外なのだろう。
しかしながら欠伸や溜息ばかり吐く訳にもいかない。見かけ上、間を挟みながら夏生は可憐な美少女の仮面を崩すこと無く、笑みを浮かべてはたまに相槌を打っていた。これは彼女なりの擬態であるのだ。
休み時間も終わりに近づく頃、暫くしてのことだが、造形物ぽく見えてしまう顔には一筋の陰りが見え始める。薄気味の悪い笑みが口元に。周囲には気付かない程度だが現れ始めた。
視線の先がちょうど、“ある少女”を捉えた為である。友人であり、クラスメイトである、友咲千尋であった。
彼女の個性である、おっとりとした動作に加え、幼子のように無垢で、天使のように緩い表情と、合い極まって、妖婦のような豊満で魅力的なプロポーションを彼女は持っている。
夏生は前々か気に掛けていた。彼女にとって“アレ”を行うには実に優れた素材であったからだ。
千尋は友人達に「アタシ、ちょっとだけ席外すね」と言い、そそくさと夏生の席から離れていった。
機は熟した。それを夏生が見逃す筈もない。すぐさま夏生も「私もちょっと……」と静謐な空間を作り上げると、席をゆっくり立ち、廊下に当然のように出て行った。授業開始間近だと言うのに。
彼女は先に出た友人千尋の後を追うようにして。そして誰一人として気付かない。何故か夏生が脇に抱えて鞄を持って出て行ったことに。
廊下に出ると途中から彼女は走り出した。黒い靴下に包まれた細い美脚が廊下を駆けてゆく。
夏生もまた気付かれないように、彼女の歩幅に合わせて走り出す。
彼女が急に止まれば、夏生も止まり近くの影に身を潜める。音も起てず気配を出来るだけ消して。
(――気付いていない。無理もないわ)
夏生の唇が僅かに吊り上がった。
これが一般人なら難しい芸当だが、夏生は一般人とは根本的に何処か違うようだ。何より、この学園に通う生徒は、外の平々凡々な一般人とは出来が違う。
学園は優秀な生徒で構成されている。ある分野など才能やポテンシャルが抜きん出た生徒だけを集めた養成校のようだ。
中でも夏生は稀に出る天才の部類に入るのだと思われる。
何処で習ったのか、はたまた生まれついてのものなのかは分からないが、彼女が様々な面で優れているのだけは納得だ。身体的にも、精神的にも、モチロン運もだ。
(あれ……時間だと言うのに、まだ歩くの?)
夏生は眼前の彼女をいやらしい目付きで見ていると、始業のベルがけたたましく鳴った。だが千尋は少しも焦る様子も無く、今はただただ歩いている。
急に止まり周りを二、三度、見回す。――といきなり階段を駆け足で上った。息を乱しながら、千尋は学園校舎の屋上に向かっている。本来立ち入り禁止の場所ながら、彼女はどう言う訳かそこに足を踏み入れた。鍵が掛かっている筈のドアが何故かすんなりと開いた所為である。
扉が開き、眩いほどの日差しが学園の内側を照らした。咄嗟的に夏生は階段傍の壁際に張り付く。
千尋が日差しの中に入ると、膝に手を着き呼吸を整えながら表を上げる。そして目前の相手に言うのだ。
「ゴメンね〜。やっぱり、待ったよね?」
「ううん、全然。アタシも今来たところだし。それより良いの? アタシなんかと一緒にいて迷惑じゃない?」
「と、とんでもない!? ううん、全〜然、良い〜よっ! だ〜いじょブイだよ」
千尋は眼前の女子に向けてVサインを出した。恥ずかしげに笑いつつも。ちなみに女子は苦笑気味だ。
「そう」
(――彼女は確か……)
夏生には遠目で見づらかった。悪い事に白いアスファルトから陽炎が昇り、さらに見づらかった。だが良く凝らしていると相手の顔や身形が徐々にハッキリしてゆく。
陽だまりの中にいる人物は――まず服装が学校指定の制服を所々改造していた。
スカートの丈は短く、上着もへそが出る位とかなり短い。
緑色のシャギーヘア。鼻耳やへそに施されたカラフルピアス。爪にはカラフルなマニキュアが塗らさっている。
目元や唇は病的に黒く、全体的な印象から察するにデスメタ系で決め込んでいるようだ。
(2−Bの坂岡ツカサ。意外。彼女ウチの学校で言う不良――だから……面白そう……)
乾いた空気の中で夏生の喉が緩やかに鳴った。
2
(あの女……許せないな。私のものに手を出すなんて。見るだけで憎たらしい)
身勝手ながら屋上のドアの鍵穴から中腰で夏生は覗き見している。数センチばかりの大きさしかない鍵穴に瞳を。ドアには無理矢理、額をへばり付かせていた。
白い爪を輝くような歯で甘噛みしながら、夏生は瞳を弓状に細めていた。彼女ら二人の様子――淫らな行いを舐めるように凝視しているのだ。
夏生の中で何かが染み出した。妬み、恨み、羨望、感情が泥沼に飲まれ溶け合い欲望が激しく加速し始めたのだ。夏生にとっての、即ち一つの愛の形である。
金属板の扉を挟んで、互いに、対称に、三人は息を荒げていた。ドアを隔てて意味合いの全く違う息遣い。一方は性的な興奮、もう一方は抑えが利かない過剰興奮。
夏生の方は手で声が漏れないように塞いでいる。
千尋とツカサの二人はと言うと――あられもない姿で生々しく絡み合っていた。制服をそこ等中に脱ぎ散らかし、裸同然の姿で戯れている。
動くたびに染み出る汗は頬や脇を伝い地面へとツーと落ちてゆく。蒸発しながらも鮮やかに溜りを作り。乾いた音が鳴り、湯気すら立ち昇る一面のアスファルトで二人は愛撫に勤しむ。
彼女らの生気宿る髪が絡むさまは、例えるなら蛇が二頭交わり、力強く離れまいとして結び愛し合っているかのようだ。
手と手が触れ合い握り返している。妖艶で美々なお昼前の情事であった。
鮮やかな真っ赤なルージュが漆黒の唇をしたたかに侵す。または逆も然り。
息は飢えた女豹のように荒く芳しくない。粘着質な水音すらぴちゃぴちゃと聞えてくる。悶え狂う二人の悩ましげな下腹部の慟哭が糸を連ねている。
光帯びた唇からは甘液が滴り、美酒を味わうように彼女らは互いを果てなく貪っていた。
痙攣でもするかのように眩い二つの実りが上下に揺れる。視線も揺れ、火照った肌が歓喜に染まってゆく。
そして嬌声が天へと駆けていた。さぞ二人の頭上には蒼空が見えていることだろう。
「「アァ――ン」」「「あふぅ」」「「いぁぁん」」「「アウゥゥン」」「「「はぁ、はぁ」」」
数分後、息や服を調え、どうやら彼女達は移動するようだ。夏生もまた階段下へと移動する。
夏生は彼女達がドアを開け戸締りをしている様子を階段下で見ている。
彼女らが降り始めたのを見るか否や、物陰へと身を潜めた。
自らが隠れている横で、何事もなく彼女達がそのまま階段を下ってゆくのを見送る。――と再度追跡を開始した。
廊下では授業時間だと言うのに楽しげに彼女達はお喋りをしていた。その様子を見ていると夏生はどうにも苛立ちを抑えきれずにいる。
夏生は先ほどから我慢できず、自分の陰部へと繊手を伸ばし、純白のパンツへと指を忍ばせ、刻みに弄り始めていた。二人の姿を自分と重ね見つめながら。
度々呼気が荒くなり、頬に艶が出ている。唇を噛み締めながらも、脳内で想像に淡々と耽っているのだろう。指先がビクリと膣内で跳ねている。
瞳には信念とは別の邪念と言うモノが心根に宿っていた。
(早く。あぁーん! 速く、あぁ! めちゃくちゃにぃぃぃ……! いぁぁぁ――癒されたい。壊したいのぉぉぉぉ!)
既に自我が爆発寸前だった。出て行って彼女らを襲いたい。陵辱したい。
もはや歯止めが利かない状態である。何とか彼女は残された理性で自分を抑えていた。
彼女にとってただ襲うのは面白くないからだ。残酷さがあまりにも足りない、欠如している。歪ませてから二人を破局に追い込まなければ。
(今は我慢しなきゃ、我慢しなきゃ、我慢しなきゃ、私は出来る子、私は出来る子、私は出来る子!)
心の中で彼女は自分に暗示を掛けていた。今は堪えて待つときだと。
そして暫く歩き、彼女達の足が玄関前で止まった。もしや気付かれたのか!? 夏生は逸した顔を一瞬だけ強張らせた。
いや……違う。分かれたのだ。各々の下駄箱に。
この学園では下駄箱がクラスごとに分かれていた。
まず一、二、三年生と下駄箱は三学年に分かれており、そこから更に四クラスずつ分かれている。階段方面――左からA、B、C、Dと言う具合に。
ちなみに夏生と千尋はDクラスであった。
(しめた!)
彼女にとってお誂え向きの状況が出来たのである。壁でも挟んだように死角が出来上がるのだ。Cクラスと言う下駄箱の死角が。
夏生は千尋の後を忍び足で付いてゆく。
千尋が上履きを脱ぎ、下駄箱に手を伸ばそうとした瞬間を狙い、彼女は出てきて言った。
「私……見てたよ、屋上でのこと……」
咄嗟の出来事に後ろを振り向き、千尋は口を開け蒼ざめて驚く。唐突に親友が登場した所為と、屋上での出来事を自分たち以外に何故か知っていた事にだ。
「え……な、何のこと? どうして? え、え、な、夏ぅ?」
「惚けなくても良いのよ。私はアナタの親友だから……何でも知っているのは当たり前。だ・か・ら・ね」
「……えっ……!?」
千尋は急に目の前が暗転していることに吃驚していた。驚くのも無理もない。まるで自分の身体が――積み木倒し、ドミノ倒しのように力なく倒れ始めているのだから。
本人は地面に立っている積もりなのだが、実際は床に汗を掻いて――今は完全に倒れていた。
何が起きたのか分からない。声を出そうにも出せない。恐慌状態に陥っていた。
そんな彼女を見て、夏生は寂しげにせせら笑っている。
「どう? 何が起きたか分からないでしょ? だから教えてあげる。私ね人間を簡単に昏倒させる方法を幾つか知っているんだ。人間はね、酸素濃度が7%以下の空気を吸うと呆気なく昏倒しちゃうんだよ、知っていた?」
「…………」
「うふふっ、あれっ、聞えてないか。結局そんなのどうだって良いの。アナタは私の許しなく浮気をした代償は払ってもらう。そしてあの女はアナタを誘惑した代償を払わすから」
夏生は好き勝手に自分本位の言い分を並べている。既に千尋の意識が無いのを知りながら。
千尋の小さな口からは空しく息が漏れるだけなのだった。
3
「さて、急がなきゃね。心配して彼女が待ってる。だって時間厳守だもの、アハハッ」
急ぐ様子はあるが表情が幾らか弛んでいる。だが――
夏生は誰もが羨む美貌を兼ねた顔に普段では考えられない笑みが張り付かせていた。邪悪で妖艶。日常の麗しき聖華に只ならぬ異様な妖華が光臨している。
彼女は脇に抱えてあるスポーツバッグ程の大きめなカバンから彼女はシッパーを開け取り出す。表情が忽然と真剣な面持ちとなる。
取り出したものはプラスチックのパッケージに包まれており、中には、ガチャ景品でお馴染みの“プラボール”“カプセル”が入っていた。
更に夏生はパッケージを開け、プラボールを取り出し捻って開ける。中には肌色をしたスライム状の固形物が入っている。
それを左手で取り出し、右手は開けられたカプセルをカバンに手早くしまう。しまい終えると右手の人差し指と中指を舌で舐め、スライムへと指先突き入れた。
固まっていたスライムは突き入れた箇所から柔軟に。柔らかくなる毎に次第に速く。
物凄い勢いで突き入れた指先はすんなり弧を描き、スライムの中を広げたり、窄めたりしている。まるでパン生地を捏ねくり廻しているかのようだ。
捏ねた粘土のように艶が出来、極めて薄くなる。その際に夏生の指先が器用にも働いているのだ。
美しい鼻や綻ぶ優しい瞳、夏生よりほんの少し厚い唇が平べったくなったスライムに出来上がってゆく。生きた人間から顔の皮を剥がしたような仮面が出来てゆくのだ。
(あと少し、楽しみね。――人間の体細胞で作られたマスクの披露はもうすぐ。そして――何もかも!)
額に大粒の汗を掻きながらでも手元は狂わない。夏生は寸分違わぬ仮面を作りあげてゆく。そう、床に仰向けに倒れた千尋――の仮面をだ。
時間にして数秒でマスクは出来上がった。一分と掛かっていない。過程で特に必要としない髪やホクロや眉などは存在はしないが。
夏生はマスクの出来栄えを確認している。さながらの刀匠の如く、片目を瞑り、対象とマスクをジックリ見比べていた。
「流石に完璧ね。……やっぱり完璧すぎるのは違和感があるわ。うふ、でも惚れ惚れしちゃう……いけない、いけない、忘れるところだった。あまり時間を掛けると不振に思われちゃう」
すると夏生は出来たばかりのマスクを何故か千尋の顔に被せたのだ。ただし裏からではない。表から被せたのだ。千尋マスクと千尋がキスをするみたく被せている。
被せた後、彼女は版画でも刷るかのようにマスクの余りを頭部全体に薄く引き延ばしてゆく。延ばし終わると一気にマスクを引っぺがした。
(で〜きた!)
夏生の瞳が黄金色に輝く。今度ばかりは少女らしい初々しい笑顔を見せた。と言うのも、なんと驚くことに裏返しマスクを見ると、彼女、千尋の頭部――全ての部品が写し取られていた。頭頂部の髪の毛や細かい細部に至る目尻の皺の部位、薄っすらと施した化粧までもが完全に写し取られている。フルフェイスマスクの完成であった。
――代わりに床に倒れた彼女は色々と部位が欠如したのだが、夏生はそれを余り気にしていない様子だ。彼女の意識はマスクへと注がれている。
夏生は細部まで完璧に写し取った、出来たてほやほやのマスクを今度は表からではなく裏から被った。布袋でも被るようにして。
マスクは彼女の顔に吸い付いてゆく。彼女の細やかな指先がラインをなぞる毎に。
初めは出来の悪いゴムマスクのように歪んでいたが、なぞる回数により段階を追って変化していった。
鼻は本来の自分より少し低く下がり、瞳や眉は少しだけ大きめに広げて、唇は思わず口付けしたくなるように厚く。……と言う具合に劇的に変化してゆく。
既に短かった髪の毛は煌くロングに早代わりしている。顔色もらしくなり、生気が宿っていた。生きた人間の肌、いや、その物に変化を遂げていた。まさに誰の目にも分かれないような精巧な造りだ。事実、夏生は肩から上をソックリと千尋から奪い取ったのだから。
夏生は自分の眼下にいる少女を見下ろしている。顔には子悪魔が微笑むような冷たい容貌を身に纏っていた。
可愛そうなことに、眼下にいる千尋は生えている毛一つない。まるで坊主のようだった。
「うふふっ、目を覚ました時、驚き泣き叫ぶ姿が目に浮かぶわ。ホントいい気味ねぇ。さて次はもう一人を……」
そう言いながら、夏生は彼女が履くはずだった外靴に履き替える。
「あ……忘れるところだった」
細指を喉に向けて、ゆっくりと摘むようにギュッと絞り上げた。
するとゴキリ、と喉が鈍い悲鳴を上げる。
痛みが駆け抜け、喉にじりに。
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